商工業都市として発展してきた大阪は、東京や京都とは異なる独自の文化圏を形成し、個性的で優れた美術作品を生み出してきました。 市民文化に支えられた近代大阪の美術は、江戸時代からの流れをくみつつ、伝統にとらわれない自由闊達な表現を開花させました。
本展には妖艶で退廃的な作風で人気を博し、「悪魔派」 と揶揄された北野恒富や、大阪における女性画家の先駆者で上村松園とも並び称された島成園をはじめ、明治から昭和に至る近代大阪で活躍した、50 名以上の才能あふれる画家たちが終結します。
東京や京都の画壇の陰に隠れて、その独自性が見えづらかった大阪の日本画に関する史上初めての大規模展覧会といえるでしょう。 |
会期: 2023 4/15 〔土〕→ 6/11 〔日〕 展覧会は終了しました。 |
'2023 4_14 「大阪の日本画」 展覧会の概要説明会 & プレス内覧会の会場内風景です。 |
・No.28 中村貞以(1900-1982) 《 失 題 》 大正 10 年(1921) 一面 絹本着色 116.0 x 85.4 大阪中之島美術館 |
・No.28 《 失 題 》 貞以は大正 8 年(1919) に恒富に師事。本作は初期の日本画となるが、その個性が早くから花開いていたことを伝えている。 |
「大阪の日本画」 |
―2023 4_14 プレス内覧会の説明会、プレスリリース、 「大阪の日本画」 カタログよりの抜粋文章です― |
「展覧会の見どころ」 大阪の日本画 / Japanese Paintings of Modern Osaka |
目 次 / Contents |
―2023 4_14 プレス内覧会の説明会、プレスリリース、 「大阪の日本画」 カタログよりの抜粋文章です― |
第一章 ひとを描く―北野恒富とその門下 / Section 1. Depicting People: Kitano Tsunetomi and His Pupils |
大阪の 「人物画」 は、明治後半から昭和前期にかけて、北野恒富(1880~1947) とその弟子たちによって大きく花開いた。 恒富の描く人物は、妖艶かつ退廃的な雰囲気をもち、京都の画家たちから
「画壇の悪魔派」 と揶揄された。 その作品は、顔を綺麗に絵描いた美人画とは異なり、人の内面を画面全体で描出している点に特徴がみられる。 とりわけ、着物の模様には工夫を凝らしており、装飾的な役割だけでなく、絵の物語性の暗示するなど恒富の意図をみることができる。 |
・左 No.16 北野恒富1880-1947 《 いとさんこいさん 》 1936 年 二曲一双 紙本着色 各 159.5 x 172.8 京都市美術館 |
・No.16 北野恒富 《 いとさんこいさん 》 大阪の船場あたりでは、成人に満たない商家のお嬢さんを 「いとさん」、その妹のことを、「小いとさん」 を縮めて 「こいさん」 と呼んだ。 姉妹は同じ色の、アザミと思われる絵柄の着物を着ているが、地の色が片方は黒、片方は白と対照的だ。 季節は夏、七夕について語らう性格の異なる姉妹を描く。/ No.19 樋口富麻呂 《船宿の女》 白麻布の鬘巻をした二人の女性が暖簾をまくり外の様子を窺っている。 女性たちは豊満な身体に対して手足は華奢で、 髪などの描線は細密に描かれている。 富麻呂特有の人物表現となっている。 |
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第三章 新たなる山水を描く―矢野橋村と新南画 / Section 3. New Approaches to Tradscape: Yano Kyoson and Shin-Nang |
大正に入ると洋画を中心に前衛表現志向が強まり、その影響は徐々に日本画にも浸透し、新しい表現や革新的な絵画を探求する動きが見られるようになる。
そうしたなか、大阪の日本画の地位向上のためには、従来の表現から脱却や変革も必要だと考え、尽力した一人に南画家の矢野橋村(1890~1965)
がいる。 |
・No.58 矢野橋村1890-1965 《 湖山清暁 》 大正 2 年(1913) 六曲一双 絹本金地墨画 各 168.5 x 374.4 個人蔵 (愛媛県美術館寄託) |
・本作は第 7 回文展に出品して初入選を果たすとともに褒章を受章。 橋村にとって記念碑的な作品である。 |
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第五章 船場派―商家の床の間を飾る画 / Section 5. Semba Style: Art in the Alcover of Merchant Homes |
多くの商家が軒を並べ、町人文化の中心であった船場界隈で家々の床の間を飾ったのは、「船場派」 の作品であった。 彼らは京都画壇の一大勢力となった四条派の流れをくみつつも、あっさりとスマートに描く大阪らしい洗練された作風で人気を博した。 |
・左 No.102 西山完瑛1834-1897 《 朝波仙禽図 》 幕末~昭和初期 一幅 絹本着色 136.2 x 84.7 個人蔵 |
・西山完瑛 大阪に父・西山芳園の子として誕生、幼少より父に画法を学び、温雅で洒脱な人物花鳥を得意とした。 本作は、どこまでも続く大海原から昇った朝陽。 静かな海と打ち寄せる波濤。 その上を飛翔する三羽の鶴、伝統的なおめでたい画題のひとつである。 / 西山芳園 突然強い雨が降り出したのだろうか。 たわわに実った稲穂に雀の一群が大慌てで雨宿りをしようとしている。 芳園の生家は大阪の本町当たりの木綿問屋で二人の兄弟の弟であったとされる。 温和な筆致による花鳥山水、人物画を得意とした。/ 庭山耕園 現在の姫路市に生まれ、大阪船場に移り、近所の上田耕沖に師事し写生を学ぶ。 花鳥画を最も得意とし、生涯船場の絵描きとして床の間に映える比較的おとなしい作品を描き続けた。 |
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大阪の夏祭り |
・No.155 島成園1892-1970 《 祭りのよそおい 》 大正 2 年(1913) 一面 絹本着色 142.0 x 284.0 大阪中之島美術館 |
・ 島成園 大阪堺に生まれ、画家で図案家の兄・島御風の仕事を手伝いながら絵を独習し、第6回文展に初入選。 文展に入選を重ね、京都の上村松園、東京の池田蕉園とともに三都の三園と並び称される。 |
林野 雅人 主任学芸員(大阪中之島美術館) |
大阪の日本画が、これまでまとまって顧みられる機会は少なかった。 その一因は、明治時代にアーネスト・フェノロサが文人画を排除し、岡倉天心も大阪の美術を評価しなかったことで、東京と京都が中心となった、いわば偏った日本美術史が編まれたことにある。
その美術史が長年踏襲されてきたことで、大阪の美術がすっかり忘れられることとなった。 また、日本一の経済力を誇った近代大阪では、画家たちには支援者がおり、彼らの求める床の間芸術、卓上芸術を手がけ、ともに茶会を楽しむことが、一つの大坂の画家のスタイルであった。 |
大阪画壇という呼称は、明治後期から昭和前期にかけては、大阪に集う画家たちを指す言葉として新聞や雑誌・評論などで散見されたが、第二次大戦後、大阪の日本画の地盤沈下とともに徐々に使われなくなっていったようだ。 京都や東京の画壇の活動を意識した、 大阪の画壇としての活動も大正時代から昭和の初めにかけては確実にあったといえるだろう。 ただ本展では、あえて大阪画壇という言葉を使用しなかった。 その理由は、近代の大阪画壇には洋画壇も含まれるためである。 ゆえに大阪の日本画なのである。 |
お問合せ:03-3212-2485 美術館サイト:http://www.ejrcf.or.jp/gallery/ 主催:東京ステーションギャラリー [公益財団法人 東日本鉄道文化財団]]、毎日新聞社 |
参考資料:Press Release 2023. 2 月 3 日、「大阪の日本画」 カタログ、チラシ他。 |
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