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「大阪の日本画」東京ステーションギャラリー
東京ステーションギャラリー (東京駅丸の内北口)
〒100-0005 東京都千代田区丸の内 1-9-1


「大阪の日本画」東京ステーションギャラリー
「大阪の日本画」東京ステーションギャラリー
「大阪の日本画」東京ステーションギャラリー

 商工業都市として発展してきた大阪は、東京や京都とは異なる独自の文化圏を形成し、個性的で優れた美術作品を生み出してきました。 市民文化に支えられた近代大阪の美術は、江戸時代からの流れをくみつつ、伝統にとらわれない自由闊達な表現を開花させました。 本展には妖艶で退廃的な作風で人気を博し、「悪魔派」 と揶揄された北野恒富や、大阪における女性画家の先駆者で上村松園とも並び称された島成園をはじめ、明治から昭和に至る近代大阪で活躍した、50 名以上の才能あふれる画家たちが終結します。 東京や京都の画壇の陰に隠れて、その独自性が見えづらかった大阪の日本画に関する史上初めての大規模展覧会といえるでしょう。
 東京ステーションギャラリーでは、企画展 「大阪の日本画」 を、2023 年 4 月 15 日(土)から 6 月 11 日(日)まで開催します。 日本の三都のひとつに数えられる大阪は、近代において、商工業都市として大きな経済力を誇りました。 その経済力を背景に、高い教養をもつ富裕層らが美術品を求め、それにこたえるかのように北野恒富、菅楯彦、島成園といった画家たちが優れた作品を生み出し、彼らからは有能な弟子たちも育ちました。 本展は、大阪の近代日本画の展開を 6 章に分けて紹介します。 明治から昭和前期に生み出された、華やかで洗練された銘品の数々をご堪能ください。


会期: 2023 4/15 〔土〕→ 6/11 〔日〕 展覧会は終了しました。
休館日: 月曜日(5/1、6/5 は開館)
開館時間:10:00~18:00 ※金曜日は 20:00 まで ※入館は閉室30分前まで 
会場:東京ステーションギャラリー (東京駅丸の内北口 改札前)
   主催:東京ステーションギャラリー [公益財団法人東日本鉄道文化財団]、毎日新聞社



'2023 4_14 「大阪の日本画」 展覧会の概要説明会 & プレス内覧会の会場内風景です。
画像をクリックすると 「冨田 章 館長(東京ステーションギャラリー)」 と 「菅谷 富夫 館長(大阪中之島美術館)」の展覧会説明が大きな画像でご覧いただけます。

プレス内覧会&説明会「大阪の日本画」東京ステーションギャラリー
・No.28 中村貞以(1900-1982) 《 失 題 》 大正 10 年(1921) 一面 絹本着色 116.0 x 85.4 大阪中之島美術館
・No.28 《 失 題 》 貞以は大正 8 年(1919) に恒富に師事。本作は初期の日本画となるが、その個性が早くから花開いていたことを伝えている。

大阪の日本画
プレス説明会 & 内覧会 '2023 4_14
会場: 東京ステーションギャラリ―



「大阪の日本画」東京ステーションギャラリー

―2023 4_14 プレス内覧会の説明会、プレスリリース、 「大阪の日本画」 カタログよりの抜粋文章です―

「展覧会の見どころ」 大阪の日本画 / Japanese Paintings of Modern Osaka
◎ 近代大阪の日本画が勢ぞろいする 史上初の展覧会
◎ 出品作家は 50 名超え! 躍動する個性が集結
◎ 大阪の文化を考える機会に
◎ 本展は、大阪の近代日本画の展開を 6 章に分けて紹介します。
明治から昭和前期に生み出された、華やかで洗練された銘品の数々をご堪能ください

目 次 / Contents
・第一章 ひとを描く―北野恒富とその門下 / Section 1. Depicting People: Kitano Tsunetomi and His Pupils
・第二章 文化を描く―菅楯彦、生田花朝 / Section 2. Depicting Culture: Suga Tatehiko and Ikuta Kacho
・第三章 新たなる山水を描く―矢野橋村と新南画 / Section 3. New Approaches to Tradscape: Yano Kyoson and Shin-Nanga
・第四章 文人画―街に息づく中国趣味 / Section 4. Literati Painting: Chiness in Urban Culture
・第五章 船場派―商家の床の間を飾る画 / Section 5. Semba Style: Art in the Alcover of Merchant Homes
・第六章 新しい表現の探究と女性画家の飛躍 / Section 6. New Stylistic Explorations and the Emergence of Women Painters


―2023 4_14 プレス内覧会の説明会、プレスリリース、 「大阪の日本画」 カタログよりの抜粋文章です―

'2023 4_14 「大阪の日本画」 展覧会の概要説明 & プレス内覧会の作品の一部をご紹介します。
画像をクリックすると 「第二章 文化を描く―菅楯彦、生田花朝」 の章が大きな画像でご覧いただけます。

第一章 ひとを描く―北野恒富とその門下 / Section 1. Depicting People: Kitano Tsunetomi and His Pupils

 大阪の 「人物画」 は、明治後半から昭和前期にかけて、北野恒富(1880~1947) とその弟子たちによって大きく花開いた。 恒富の描く人物は、妖艶かつ退廃的な雰囲気をもち、京都の画家たちから 「画壇の悪魔派」 と揶揄された。 その作品は、顔を綺麗に絵描いた美人画とは異なり、人の内面を画面全体で描出している点に特徴がみられる。 とりわけ、着物の模様には工夫を凝らしており、装飾的な役割だけでなく、絵の物語性の暗示するなど恒富の意図をみることができる。

 また、恒富は画塾の白耀社を主宰するとともに、「絵を描く工場」 といわれた大きなアトリエを郊外の小坂に構え、樋口富麻呂(1898~1981) や中村貞以(1900~1982)、女性画家の島成園(1892~1970) や木谷千種(1895~1947) など大阪を代表する画家をはじめ、多くの後進を指導した。 そして、恒富に学んだ彼ら彼女らの活動により、多彩な人物表現は大阪の日本画のひとつの特徴として全国に知られるようになった。

北野恒富 No.16《いとさんこいさん》、樋口富麻呂 NO.19《船宿の女》

・左 No.16 北野恒富1880-1947 《 いとさんこいさん 》 1936 年 二曲一双 紙本着色 各 159.5 x 172.8  京都市美術館
・右 No.19 樋口富麻呂1898-1981 《 船宿の女 》 1921 年 一幅 絹本着色 151.0 x 56.7 大阪中之島美術館

・No.16 北野恒富 《 いとさんこいさん 》 大阪の船場あたりでは、成人に満たない商家のお嬢さんを 「いとさん」、その妹のことを、「小いとさん」 を縮めて 「こいさん」 と呼んだ。 姉妹は同じ色の、アザミと思われる絵柄の着物を着ているが、地の色が片方は黒、片方は白と対照的だ。 季節は夏、七夕について語らう性格の異なる姉妹を描く。/ No.19 樋口富麻呂 《船宿の女》 白麻布の鬘巻をした二人の女性が暖簾をまくり外の様子を窺っている。 女性たちは豊満な身体に対して手足は華奢で、 髪などの描線は細密に描かれている。 富麻呂特有の人物表現となっている。


―2023 4_14 プレス内覧会の説明会、プレスリリース、 「大阪の日本画」 カタログよりの抜粋文章です―

'2023 4_14 「大阪の日本画」 展覧会の概要説明 & プレス内覧会の作品の一部をご紹介します。
画像をクリックすると 「第四章 文人画―街に息づく中国趣味」 の章が大きな画像でご覧いただけます。

第三章 新たなる山水を描く―矢野橋村と新南画 / Section 3. New Approaches to Tradscape: Yano Kyoson and Shin-Nang

 大正に入ると洋画を中心に前衛表現志向が強まり、その影響は徐々に日本画にも浸透し、新しい表現や革新的な絵画を探求する動きが見られるようになる。 そうしたなか、大阪の日本画の地位向上のためには、従来の表現から脱却や変革も必要だと考え、尽力した一人に南画家の矢野橋村(1890~1965) がいる。

 橋村は、明治 40 年(1907) に大阪に出て間もなく、左手首切断という不慮の事故に遭い、右手一本で画業に専念する決意をする。 橋村は日本の風土にもとづく日本南画をつくることを目標に掲げ、江戸時代より続く伝統的な南画(文人画) に近代的感覚を取り入れた革新的な 「新南画」 を積極的に推し進めた。 橋村の新南画は近代大阪画壇において恒富らの 「人物画」 と並び大阪を代表する日本画として、重要な足跡を残した。 橋村は大正 8 年(1919) に直木三十五、福岡青嵐らと美術や文芸研究を目的とした主潮社を立ち上げたほか、日本南画院の創設にも携わり、さらには大正 13 年には大阪美術学校を設立し初代校長に就任するなど、大阪の美術の発展に尽力した。

矢野橋村 No.58《湖山清暁》

・No.58 矢野橋村1890-1965 《 湖山清暁 》 大正 2 年(1913) 六曲一双 絹本金地墨画 各 168.5 x 374.4  個人蔵 (愛媛県美術館寄託)

・本作は第 7 回文展に出品して初入選を果たすとともに褒章を受章。 橋村にとって記念碑的な作品である。


―2023 4_14 プレス内覧会の説明会、プレスリリース、 「大阪の日本画」 カタログよりの抜粋文章です―

'2023 4_14 「大阪の日本画」 展覧会の概要説明 & プレス内覧会の作品の一部をご紹介します。
画像をクリックすると 「第六章 新しい表現の探究と女性画家の飛躍 」 の章が大きな画像でご覧いただけます。

第五章 船場派―商家の床の間を飾る画 / Section 5. Semba Style: Art in the Alcover of Merchant Homes

 多くの商家が軒を並べ、町人文化の中心であった船場界隈で家々の床の間を飾ったのは、「船場派」 の作品であった。 彼らは京都画壇の一大勢力となった四条派の流れをくみつつも、あっさりとスマートに描く大阪らしい洗練された作風で人気を博した。
それらは、京都の四条派が描く展覧会場で目をひく鮮やかな色調で彩色された作品ではなく、さりげなく床の間を飾る品のいい瀟洒な作品で、有力なパトロンの屋敷の床の間や広間を飾っている。
船場派には、(1) 幕末から明治期に活躍した西山芳園(1804~1867)・西山完瑛(1834~1897) によって確立された花鳥画や名所絵を得意とした西山派の系譜、 (2) 明治期に京都から大阪に移り住み、花鳥や動物を得意とし、大画面も多く手がけた深田直城(1861~1947) によって普及した一派、(3) 「船場の絵描き」 として同地に住み、画塾を構えた庭山耕園(1869~1942) など、いくつかの系譜がみられる。
それぞれ特徴は異なるものの、注文に応え求められた絵を描く船場派のスタイルは、 大阪の人々の暮らしに寄り添って存在しており、もっとも大阪らしい絵画であったといえる。

西山芳園 No.101《黄稲群禽図》、西山完瑛 NO.102《朝波仙禽図》、庭山耕園 No.116《白雁鶏頭図》

・左 No.102 西山完瑛1834-1897 《 朝波仙禽図 》 幕末~昭和初期 一幅 絹本着色 136.2 x 84.7 個人蔵
・中 No.101 西山芳園1804-1867 《 黄稲群禽図 》 幕末 一幅 紙本着色 132.7 x 45.5 個人蔵
・右 No.116 庭山耕園1869-1942 《 白雁鶏頭図 》 大正 10 年(1921) 一幅 絹本着色 132.0 x 50.4 大阪中之島美術館

西山完瑛 大阪に父・西山芳園の子として誕生、幼少より父に画法を学び、温雅で洒脱な人物花鳥を得意とした。 本作は、どこまでも続く大海原から昇った朝陽。 静かな海と打ち寄せる波濤。 その上を飛翔する三羽の鶴、伝統的なおめでたい画題のひとつである。 / 西山芳園 突然強い雨が降り出したのだろうか。 たわわに実った稲穂に雀の一群が大慌てで雨宿りをしようとしている。 芳園の生家は大阪の本町当たりの木綿問屋で二人の兄弟の弟であったとされる。 温和な筆致による花鳥山水、人物画を得意とした。/ 庭山耕園 現在の姫路市に生まれ、大阪船場に移り、近所の上田耕沖に師事し写生を学ぶ。 花鳥画を最も得意とし、生涯船場の絵描きとして床の間に映える比較的おとなしい作品を描き続けた。



'2023 4_14 「大阪の日本画」 展覧会の概要説明会 & プレス内覧会の会場内風景です。
画像をクリックすると 「学芸員によるギャラリートーク」 が大きな画像でご覧いただけます。

大阪の夏祭り

 No.155《祭りのよそおい》

・No.155 島成園1892-1970 《 祭りのよそおい 》 大正 2 年(1913) 一面 絹本着色 142.0 x 284.0 大阪中之島美術館

島成園 大阪堺に生まれ、画家で図案家の兄・島御風の仕事を手伝いながら絵を独習し、第6回文展に初入選。 文展に入選を重ね、京都の上村松園、東京の池田蕉園とともに三都の三園と並び称される。
大阪の夏祭りは地元の神社を中心に催される大切な行事で、心躍る風物詩でもある。 本作には、無邪気な娘たちが着飾って店先に座っている。 少し離れたところからその様子を見つめる女の子も清潔で愛らしい。 だが、描かれている少女たちの装いを比べると残酷な貧富の差が歴然としている。 21 歳の新進画家・島成園は、社会的な格差がもたらす少女たちの心の揺れを、着物や履物、髪飾りや表現を細やかに描き分けて見事に表現した。

林野 雅人 主任学芸員(大阪中之島美術館)
大阪で生まれた日本画― 「大阪の日本画―おわりに」 カタログから抜粋文しています。

大阪の日本画が、これまでまとまって顧みられる機会は少なかった。 その一因は、明治時代にアーネスト・フェノロサが文人画を排除し、岡倉天心も大阪の美術を評価しなかったことで、東京と京都が中心となった、いわば偏った日本美術史が編まれたことにある。 その美術史が長年踏襲されてきたことで、大阪の美術がすっかり忘れられることとなった。 また、日本一の経済力を誇った近代大阪では、画家たちには支援者がおり、彼らの求める床の間芸術、卓上芸術を手がけ、ともに茶会を楽しむことが、一つの大坂の画家のスタイルであった。
そのため、奇抜な大画面作品を制作する必要のある公募展と距離を置く画家が多かったことも、これまでの美術史から漏れ落ちる要因のひとつとなった。 さらに、大阪の地では近代美術を専門とする美術館が計画されながらその実現までに多くの時間を要したこともまた、その一因となつていることは間違いないだろう。
中谷伸生氏(関西大学名誉教授) が 「日本美術史の研究において、膨大な作品を保持する最後の遺された領域」 と唱える大阪の絵画は、今後大きく花開く可能性を最も秘めている。
ところで本展の出品作家を見渡してみると、そのほとんどが大阪以外の地域の出身者であることがわかる。
北陸や中国地方、そして航路でつながっていた愛媛や大分など西日本の出身者が多い。
当時から文化的な繋がりが強く、親戚知縁を頼って出てきたり、経済力があり仕事のあった大阪を目指したりとその理由は様々であるが、大阪には外の人を受け入れる度量があり、彼らをこの地の画家として支えてきたと言える。
今後、大阪での活動だけでなく出身地との関りなど明らかにすることで、当時の大坂の日本画の真の姿や、大阪の街にどのような魅力があったのかが、明らかになってくるだろう。

 大阪画壇という呼称は、明治後期から昭和前期にかけては、大阪に集う画家たちを指す言葉として新聞や雑誌・評論などで散見されたが、第二次大戦後、大阪の日本画の地盤沈下とともに徐々に使われなくなっていったようだ。 京都や東京の画壇の活動を意識した、 大阪の画壇としての活動も大正時代から昭和の初めにかけては確実にあったといえるだろう。 ただ本展では、あえて大阪画壇という言葉を使用しなかった。 その理由は、近代の大阪画壇には洋画壇も含まれるためである。 ゆえに大阪の日本画なのである。



お問合せ:03-3212-2485
美術館サイト:http://www.ejrcf.or.jp/gallery/
主催:東京ステーションギャラリー [公益財団法人 東日本鉄道文化財団]]、毎日新聞社

参考資料:Press Release 2023. 2 月 3 日、「大阪の日本画」 カタログ、チラシ他。

※画像の無断転載禁止


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